消失点
私は、それを拒んだ。
唇が重なる瞬間、私は身を引いてヒソカの指先から逃れた。
「…キミは勘がいいね」
ヒソカは視線を落としてそう笑うと、口の中から小さな錠剤を取り出して見せた。一見ただの薬のようだが、目を凝らすとそれが淡いオーラに包まれているのがわかった。
「…それ、なに?」
「オーラで具現化したドラッグだよ」
「ドラッグ?」
「そう。使うとちょっとした特殊効果が発動する類のね。これは念を込めて飲ませた人間に関する記憶を、相手の頭からトばせるんだ。…キミが大人しく飲んでくれたらよかったのになあ、残念」
「それって…」
「その方がきっとキミは幸せだよ」
ヒソカは視線をそらして、独り言のようにつぶやいた。
「…ヒソカは?」
「キミが幸せならボクも幸せだよ」
「嘘つき」
「嘘じゃないよ」
キミが、とヒソカは言葉を継いだ。
「もしキミが本当にボクという人間を、なにか重要な感情で意味づけているとしたら、それはひどく下らないことだから今すぐやめるべきだよ。その方が賢い」
「私、賢い女じゃないもの」
そう切り返すと、ヒソカの薄い笑みの中に苦笑が滲んだ。
「…ああ、そうだったね。ボクなんかといられるキミがまともなわけないね」
「まともだったら、とてもできないわ」
私は少しだけ笑った。
そう、まともだったらできない。
怪我を負うことに躊躇せず、必要以上に自身を傷つけたがる人を黙って見守ることも、気まぐれにどこかへ行ってしまう人の傍にいることも、見た目より随分幼く攻撃的な人の背をなりふり構わず抱きしめることも、口癖みたいに私の名前を呼ぶ声に、その度その度返事をすることも、平然と過去を切り捨てると言ってはばからない人と時間を共有することも、死ぬかもしれない戦地へ赴く人を何も言わず見送ることも、できやしない。
私の身体に何度もすがった、傷のたえない、しなやかで力強い、どこか子供じみたその熱い手を、潔く離すことも。
「まともじゃないあなたと、まともじゃない私。ぴったりでしょ?」
私がふざけて言うと、ヒソカはふっと唇から笑みを消した。
なにかが飛び立っていくようだった。ヒソカから、あるいは私とヒソカの間から、なにかが遠くへ飛び立っていった。
「キミはボクのためにそうなった。だから、キミはもうまともになるべきなんだ」
違うわ、と言い募ろうとした唇を、抗う間もなくヒソカに塞がれた。押し返そうと伸ばした腕は強く払いのけられ、胸の中に抱き寄せられた。
その荒っぽい抱きかたに反して、息を殺すような、まるで、誰にも聞かれないように、誰にも見つからないように隠すような、あまりに静かな口づけが彼らしくなくて、どうしようもなく私を悲しくさせた。
これは葬式なんだと、ふいに思った。
『最期のお別れです』
頭の中で誰かが告げる。
私は参列者と同じように嗚咽を上げて涙を流し、棺の中を覗き込む。その顔が見知った顔とかけ離れていて、私は狼狽し、慌ててまくしたてる。
違うんです、この人はこんなんじゃないんです、本当は全然違うんです、私の前ではこうじゃなかったんです、本当はもっと、もっと……。
そう言いかけてうまく思い出せないことに気づく。死んだそばから、もう忘れている。もう違う場所にいる。そうなってようやく、もう二度と同じ場所には立てないことを知る。
きっと大丈夫だ、と私は思った。
私などいなくても、添えられる花などなくても、彼は一人で生きて、一人で死ねる。私がいつまでも覚えていたら、彼が綺麗に無くなれない。過去を持たない彼は、死んだらすぐに、手品みたいにぱっと一瞬で消えられる。まるで、彼がいたことが嘘みたいに。
そして、私はすっかり忘れた彼の名前を聞いてこう言うのだ。
『それ、誰?』
それでいいのだ。私はもう、まともになるのだから。彼以外の人たちと同じ、まともな人間に。
私が見送りに立てるのは、ここまでだ。
棺の蓋が閉じられていく。私は銀色の寝台に載った棺から、大切に、大切に、目をそらす。
一度だけ、もう呼ぶことのない彼の名前を、そのささやくような、どこか『さよなら』に似た発音の名前を胸の中でつぶやいて、口の中に押し込まれた小さな錠剤を、私はそっと飲みこんだ。
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