女を犯す夢をみていた。
相手の顔も身体も認識に靄がかかって見ることができないのに、部分は確かにそこにあって、ふれた感触は生々しいほどリアルだった。手の中の温度や、指先の粘度まで残っている。
夢の中のセックスは楽だ。頭を使わなくても自動的に進んでいく。何も考えなくていい。
ああ達きそうだと思ったら、ふいに湧き上がった激痛に叩き起こされた。
覚醒とともに、高熱と、繋げたばかりの両腕の痛みが一遍に襲いかかってきた。激しい動悸に息が乱れる。胸が弾むのもすぐには抑えられそうにない。額から汗が流れていく。寝乱れた髪が額に張りついて鬱陶しい。熱い目蓋をしばたかせると、汗だか涙だか知れないものが流れていった。
かなり追い詰められているらしい自分の醜態に口元が緩んだ。
「なに笑ってるの」
ベッドの端に見慣れた女の顔があった。半ば呆れたようなまなざしと声。下着姿などではなく外出着のままで、僕の脚の間に座り込んでいる。彼女の手が握るものを目にして、ようやくさっきの夢の理由を知った。
「…ああ、君のせいでエッチな夢みちゃった」
冗談めかして言うと、はくすくすと肩を揺らした。
「私がサキュバスの正体なわけね。よかったでしょ、フュースリみたいな夢魔じゃなくて」
スイス人画家の不気味でエロティックな絵を持ち出して、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
サキュバスは、男の夢の中に出てきて快楽を与える女の夢魔だ。淫靡な魔は、人を誘惑して精を奪おうとする。もっとも、フュースリの絵に登場するのは、女の夢に出てくる男の夢魔、インキュバスの方だが。
「succubus(ラテン語で「下になる」)なら、下にしてあげようか」
正直そんな余裕はないのだが、健在を示そうとしてか勝手に軽口が飛んだ。時を選ばず、誰彼構わずリップサービスをしてしまう僕の悪癖を知り尽くした彼女は、深く溜息をついた。
「…天地無用でしょ、その身体じゃ」
僕の化膿したグロテスクな傷口をちらと見て、は言った。
マチに動かすなと釘をさされたのに、無茶な戦闘をしたのがたたった。幸いもう一回彼女のお世話になることにはならなかったものの、傷口が悪化し接着が長引く羽目になった。早い話が自業自得だ。
両腕の痛みは凄まじかった。繋げているはずなのに、肉を切れ味の鈍った剃刀で地道にじりじり削ぎ落とされているようだった。それはマゾヒスティックな嗜好を持つ僕にとって快のオブジェクトにすらなりうるが、今夜ばかりはそう楽観できないほどの地獄だった。
持ち前の感度の良さは、普遍的な快楽のみならずこういう時にも発揮されるもので、要するに僕は、女並みに痛みに強いけれど、女並みに痛みを感じやすい性質だった。
見かねたが鎮痛剤を打ったのは、数時間前のことだ。それが切れて恐らくうなされていたところを、サキュバスに扮したナイトナースに処置を施されたといったところか。
「…ねえ、ヒソカってさあ」
がぼんやりとつぶやく。
こちらからいくら視線を合わせても目が合わない。
「痛いのと気持ちいいのどっちが好き?」
右手で僕をさすったまま、の目が僕の腕をぐるりと巡る赤いキリトリ線を鋭く追った。僕は一瞬、その鋭利な視線に、すぱんと、野菜を輪切りにするみたいに小気味良い音さえ立てて切り落とされたような錯覚を起こした。
途端に脈打つような鈍痛がぶり返してきて、僕はまた性懲りもなく口元をだらしなく緩める。
「そうだね…どっちもかな」
「…まあ、そんな感じだよね」
僕の答えはのお気に召さなかったようで、彼女は退屈そうに目を伏せた。
「昔はどっちも嫌いだったけど、今はどっちも好き」
「ふうん、そうなの」
これ見よがしに餌を投じてみたのに、彼女は綺麗に無視した。
気まぐれに本当のことを言っても、こうしてまともに取り合ってもらえないのは、虚言症である僕の業なんだろう。悲しいとも寂しいとも思わない。
ただひたすら、一生の孤独を予感する。それをある種の美徳と感じる限り、僕は病気だ。
「じゃあ、両方いっぺんに来たら?」
暗闇の中で、の双眸が猫のように光った。
訪れた挽回のチャンスに、僕は舌なめずりをする。
「ああ…そうだね、それは…」
半身を起こしながら、立てた膝越しに彼女を見た。目が合った。
蝋燭の火を吹き消すように、ふっと、笑みを消した。
「たまらないね」
彼女の揺らいだ瞳孔に、僕は企みの成功を見た。
人心掌握なんてものは僕の方が何枚も上手なんだよ、とでも言わんばかりに相好を崩してみせると、彼女は自身の動揺を恥じるように研いだ視線をこちらに向けた。
子供っぽく唇を尖らせたを、僕はすかさずなだめにかかる。
露骨に脚を撫でるときつくはねのけるのに、頭は大人しく撫でられる君のひねくれた正直さが滑稽で、けれども、僕にそういう感情があるとすれば、刹那的で人間的でプラトニックな意味のことを多分思った。
君に言えばまたつむじを曲げられてしまうだろうけれど、僕にやりこめられてすっかり機嫌を損ねた君の機嫌を取ることが僕の愉しみで、それは君の逆鱗も性感帯も知り尽くし、ふれ慣れた僕にとっては容易いことだった。
「君はどうなの?」
「…え?」
「痛いことと、気持ちいいこと…どっちが好き?」
考えを巡らせるように彷徨った視線が、こちらへ漂着しかけて慌てて舵を切った。
僕は、まつ毛の下に隠れた瞳を静かに見つめた。視線はそのまま戻ってこなかった。
「どっちも…好きだけど苦手かな」
僕は苦笑して、目を逸らした。
「それ、僕のこと?」
はちょっとだけ笑った。
やおら立ち上がるとキッチンに姿を消し、戻ってきたの手にはグラスがあった。
彼女は白い喉を見せつけるようにグラスを傾け、金茶に光る中身を口に含むと、再び僕を飲み込んだ。途端に、表面で火花が散るような刺激に襲われた。四方八方ばちばちと弾かれる微弱電流にも似た痛みがたまらなく気持ちよくて、僕は目を閉じて天井を仰いだ。
泡のような吐息が漏れた。誰かが笑った。僕の声だった。
目蓋の裏に花火が見えた。あちこちで目まぐるしく小さな破裂が起きる。
線香花火を思い出したら、もうすぐ夏だということを思い出して、そういえば彼女と夏を過ごしたことがないことに気づいて、今年は夏中彼女と過ごしたいと思ったけれど、そんなことを思ったところで、どうせ僕のことだから嘘になるに決まっていたので、口に出すことをやめた。
「…それ、なに?」
僕は薄目を開けて訊いた。
「ウイスキーのソーダ割り。…炭酸、いい感じでしょ」
一度深く根元から先まで搾り取るように吸いついた唇は、ちょっとした失敗をごまかすような微妙な笑みを浮かべた。氷とかメントールを使う女はいたが、これは初めてだった。
どこで覚えたの、と訊くと、はさっきまでの消極的な目つきをすっと澄ませて、優しい甘やかな声で、大切なものを差し出すように、あなた以外の人、とささやいた。
僕は薄く笑った。
の手にしたグラスの中で炭酸の泡沫が弾け、細かくなった無数の粒が水面に上っていくのが見えた。ぱちぱちと弾ける小さな破裂音。飲み口にルージュの跡が悪びれもなくきらめいている。
僕は彼女の手から金茶に光るグラスを傾け、喉に流した。かぐわしい気取った香りが鼻についた。喉を経た胸の中で、ぱちぱちと何度も破裂する音を聞いた。小さな泡が弾けて消えていくその音に、僕はいつまでも耳をすませていた。
「…切れてるけど、もう一本打つ?」
おもむろに時計を確認してが言う。
僕は、未使用の注射器に手を伸ばしかけた彼女に制止をかけた。
「いや、いいよ。…それより」
僕は口をつぐんだ。
片膝を腕に抱いて、膝頭に額をそっと押しあてる。
…それより、もっと僕を本気で愛してくれよ。
時々、なんだかとてもやりきれないんだ。正直、自分でもよくわからないけど、とにかく欲しいんだ。なにがなんて僕だってわからないよ。でも、欲しくて欲しくてしょうがないんだ。それを僕にちゃんとくれるのはきっと君だけなんだ。ねえ、君じゃないとだめなんだ。
僕にもっとちょうだい、もっとたくさん、もっと、もっと…僕をもっと好きになってよ。なによりも僕を愛してよ。誰よりも、君よりも、僕よりも、…僕を愛してよ。
……ねえ、頼むよ。
膝に閉じた目蓋と鼻梁を押しつけながら、僕は今何歳だっけ、と思った。
両腕の傷が熱くて仕方なかった。大丈夫だ、と自分に言い聞かせた。
小さい頃、痛みや気持ちよさがひたすら嫌で嫌でたまらなかったのは、その形が正しくなかったからだ。醜く、不正に満ちて、歪んでいたからだ。でも、もういくつかになった僕は正しい痛みと気持ちよさを知っている。
これは正しい痛みだ。だから僕は、恵まれているんだ。
「…」
「なに、ヒソカ」
波が寄せて引くように、君と僕の名前は心地いい速度ですれ違った。
肩をぶつけ合うこともなく、立ち止まることもなく、けれど通り過ぎる一瞬、互いの目がふと合うような、それから振り返る間もなくもう二度と会えないことに気づくような、僕たちは、そんなふうに互いを呼んだ。
「…続けて、ゆっくりでいいから」
うつむいたまま僕は言った。
の手は、僕の脚の間にも、ウイスキーの入ったグラスにも、注射器にもふれることはなく、ただそっと、静かに僕の頭を撫でた。
僕は痛み続ける腕を持ち上げて、そっとの腕にすがった。
僕は、君のことが少しだけわからなくなった。
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