赤い爪が、またひとつチョコレートを唇に押しこんだ。

 部屋の空気が甘ったるい、とキルアは思った。ベッドの端に背をあずけて、あぐらをかいた足を組み直しながら、隣のを横目に見る。
 甘ったるい顔の女が甘ったるい服を着て甘ったるいものを食っている。甘いものが割と得意なキルアでさえも、胸焼けを起こしそうだった。
 床の上に散らばる色とりどりのサテンのリボンと、意匠を凝らしたたくさんの箱。宝石箱のように敷き詰められていた小粒の見目美しいチョコレートの数々が、小一時間でほとんど誰かの胃におさまってしまった。
 『逃走する賊が高貴な宝石を嚥み込んで隠匿するように』というのは文豪の比喩だが、キルアの目の前で繰り広げられている光景は、まさしく女泥棒がブラックダイヤを頬張るがごとくだった。

「…なんで俺のとこ来るんだよ」
「来ちゃだめだった?」
 は、きょとんとした顔でキルアを見上げた。黙っているとの表情がみるみるうちに翳っていく。水を張ったような瞳に見つめられて、キルアはとうとう音を上げた。
 女のこういうところがずるいと思う。わがままで自分優先の図々しい態度をちょっと指摘してやると、途端に悲しげで不安そうな、親に置いていかれそうなガキみたいな顔をする。そういう時の女に男はめっぽう弱い。さらに手に負えないのは、女もそのことを知っているということだ。
「…別に、だめじゃないけど」
 女って馬鹿だけど男はもっと馬鹿だよなあ、と半ば自分に呆れつつキルアはそう言った。それを聞くなり、はにっこり笑う。さっきまでのブルーな空気はどこへやらだ。
「…なんかね、キルアといると落ち着くの」
 隣に座るの腕がもう少しでふれそうで、俺は全然落ち着かねーんだよ、と内心悪態をついた。なんだか不公平だと思った。
「そういう感じ、ちょっとイルミと似てる気がする」
 は懐かしそうな表情でキルアを眺めた。
 キルアは、その眼差しからさりげなく逃げた。自分の顔に兄貴の顔をが透かし見ているように感じた。代わりにされるのは正直ごめんだ。
「…兄貴と俺は似てねーよ」
 苦々しい口調で、床に散乱したチョコレートの空き箱をつま先で小突いた。箱はひっくり返って、仕切りと中敷が飛び出した。綺麗な宝石箱は、ただのゴミになった。
「見た目はね。でも時々、雰囲気がすごく近い時あるよ」
「そういうのってさ、本人にはわかんないよな」
「あ、爪の形とか」
「兄弟みんなに当てはまんじゃねーの、それ」
「じゃあ、匂いとか」
「匂い?」
「うん、ほら」
 言うなり、がキルアの肩に手をかけて首筋に顔を近づけた。
 キルアはぎょっとして、驚いた猫のように目を見開いて硬直した。じんじんと耳が熱くなる。鼻先にたまらなくいい匂いがして、目を閉じて深く吸い込むと、ドラッグみたいに脳の隅々までとろけそうな心地よさが行き渡って、身体の力が抜けていった。
 ああ、今、すごく危険なんだ、とキルアは他人事のように思った。
「…やっぱり同じ匂いがする」
「…だから、俺には…わかんねーよ」
 すぐそばでつぶやくに、返事をするのが精一杯だった。だから、が泣いていることにすぐには気づかなかった。
「…ごめん、嘘。…似てないよ」
 声が震えるのをごまかそうとして失敗したような、へたくそな笑い方だった。
「…イルミは、私のこと、好きにならないよ」
 はうつむいて、肩から滑り落ちた髪のカーテンの向こうで泣いた。キルアは何も言わず、見えない涙を見つめていた。人は、こんなに静かに泣けるのかと思った。
 やっぱり女はずるい。全部わかっている上で、全部済んだ上で、こういうことが平気でできる。爪の形や身体の匂いがわかるくらいの関係を隠しもしない。最低だ。

 の手が何かを探し求めるように宙を彷徨い、キルアの腕にふれるや否や、すがるように指先を絡めてきた。真っ赤なネイルが、持ち主の代わりに悲鳴をあげているようだった。よく見ると先が少し剥げていた。気づいた途端、頭に血が上った。
 キルアはの手を振り払った。震える肩をつかんで、兄貴の名前をつぶやいたばかりの唇に噛みついた。顔を背けようとするを床に押しつけた。歯止めが利かなかった。殺したくてたまらなかった。それが、やりたいということなんだとようやく気づいた。
 自分が何に怒っているのか、何を悔やんでいるのか、何が悲しいのか、何で発情しているのか、何を期待していたのか、何が欲しかったのか、わからなかったけれど、ふられて泣きついてきたところにつけこもうとする自分も、最低だということはわかっていた。

 ふいに涙がこぼれそうになって、キルアはきつく目をつぶった。チョコレートの甘ったるい味に苛々した。
 そんなんじゃない、そんなもんじゃなかったんだ、とキルアは何度も繰り返した。


→アトガキ
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