殺風景な部屋の真ん中に、天井から紐がたれている。
 クロロがこれはなんだと聞くと、はさも当然のように、羽だよと言った。どこか誇らしげにも見えるその表情を、クロロは黙って見つめた。
 は紐の真下に猫脚の椅子を運び、向かいの窓を大きく開いた。
 凄まじい春風に、クロロは思わず右手をかざした。まるで空を悠然と泳ぐ、恐ろしく巨大な生き物が、どこか休むところはないかと彷徨っていると偶然開いた窓を見つけ、これ幸いと勢いよく飛び込んできたようだった。
「ほら、見て」
 は振り返らずに窓の外を指さした。クロロは静かに窓際に並ぶ。
 五分咲きの桜が見事だった。一切の香りもないことが不思議なほど、何千何百はあろうかという花の海だった。胸がすくような清清しい青空には綿雲がてんてんと散り、大河に浮かぶがごとくゆっくりとそれらは押し流されていった。
「死にたくなるくらいきれいでしょ」
 きれいという言葉にそんな形容句がつくとは知らなかったが、美と死が非常に近しいものであること、そしてそれらが近親相姦的にしばしば交わることに、クロロは心当たりがあった。人間は醜いから美に狂う。美しいものに死を迫られるのも、美しいものを死に追いやりたくなるのも、すべからく人の醜さゆえの業である。
「この椅子からあの空をいつも見てるの」
 椅子の上につま先で立っては言った。
「ここからあの空に向かって椅子を蹴ったら、飛べそうな気がするの」
 先を輪にした紐を首にかけては微笑んだ。
 窓の外を鳥がよぎっていった。あまりにも一瞬で、羽の色さえわからなかった。
「じゃあ、なんで飛ばないんだ?」
 なぜ飛びたいんだとは聞かなかった。桜がざわざわと風に枝を揺らした。女たちにこそこそと悪口を言われているようだとクロロは思った。
「勇気が出ないの。でも、なんだって最初のきっかけさえあればできるはずなの。のぼった木の上から飛び降りることも、自分を心から信じてくれる人に嘘をつくことも、人の顔を殴ることも、魚の精巣を食べることも、名前も知らない人とセックスすることも、お菓子を盗むことも、自分に剃刀を引くことも、最初からいない人を愛することだってできるんだよ」
 クロロは薄く笑った。こいつは何にもわかっていない。どこか自慢げな熱っぽい口ぶりが癪に障った。
「あげようか、きっかけ」
 無造作にの立つ椅子に足をかけてクロロはそう言った。そのわずかな振動で、の右足が浮いた。一瞬バランスが崩れたが、残った足一本でもバレリーナのように膝をすっと伸ばては立ち続けた。その目がクロロを見て笑った。
「ちょうだい」
 なんだかエッチだなと思いながら、クロロは椅子を蹴り飛ばした。
 靄のかかる早朝の河辺で船を漕ぎ出すように、ゆっくりと密やかにの足が宙に踏み出された。前後に揺れるしなやかな二本の白い足は、水をかくこともできず泡に包まれて海の底へ沈んでいく人魚だった。クロロの胸に、桜貝のような爪を生やしたつま先が、とんとあたった。
 その時、唐突に紐が切れた。が落ちた。急に時間が動き出したように、すべてが突然だった。クロロはを抱きとめ、その勢いに任せて床に転がった。はげほげほと激しくむせて、身をよじった。クロロはそれを見て、静かに息をついた。
「…飛ぶには、重すぎたのかな」
 腹をさすって困ったように笑うを、クロロは殴り飛ばした。かろうじて加減はした。
 は頬を押さえてクロロを見た。顔の半分は無残だった。鼻と口から血がぼたぼた流れた。白い喉には鬱血の線が深く刻まれ、反射で引っ掻いた爪跡で血まみれだった。潤んだ粘膜のようなピンク色のネイルがぼろぼろに欠けて、爪の間に血と肉がこびりついて赤黒く固まっていた。
 ごうと、また強風がやってきて室内を泳ぎ回った。桜の木々が窓の向こうでざわめく。
 窓の下に座り込んだまま、何を言うでもなくクロロは天井を見つめた。途中から千切れた紐がゆらゆらと風に揺れる。部屋の隅に転がった椅子は、根元から猫脚が一本折れていた。
「…俺が、死ぬのが怖くないのは勇気があるからじゃない。諦めてるからだよ」
 が半分腫れ上がった顔を上げた。クロロはそれを視界の端にとらえたまま続けた。
「お前は勇気なんてきれいな言葉使ってるけどな、お前はその時諦めたんだろ。なんだってできるような気がするのは、それと引き換えに何かを捨てたからだって知ってんのか?もう一生戻らないものを切り捨てるって覚悟、お前にはできてたのか?」
 膝を抱えて、は顔を伏せた。
 窓から風に乗って桜の花びらが舞い込んできた。薄桃色の雪に見えて、クロロは親指と人差し指でそれをつまんだ。しばらくそうしていると体温に負けてくしゃりと丸まって汚くなった。
 クロロはそれをそっと手の中にしまった。

 死ぬのは怖くない。けれど、それは覚悟が決まっているということで、今すぐ死んでもいいと思っているわけじゃない。ごみ捨て場で育ってきた俺は、捨てちゃいけないものなんてこの世にないと思っているし、捨てることに躊躇なんてない。なにより、捨てなければ生きていけなかった。

 クロロは手の中の花びらを窓の外に捨てて、そっとの手を握った。かすかに握り返してきた手は、体温に馴染んでも小さく白いままだった。

 俺と違って真っ当に生まれたお前はそんなこと知らなくていい。紐の切り口がすっぱりと鋭いことも、天井に突き刺さったままのナイフも知らなくていい。その腹の中身をどうしようとお前の勝手だ。…勝手だけれどな、

 ごめんなさいと、は小さな声でつぶやいた。
「俺が怒ってるのはそのことじゃない」
 が戸惑うようにクロロを見た。
 クロロは微笑する。

 本当のことを言うと、俺はお前がそれと一緒に死のうが死ぬまいがどうでもいいんだよ、。どうでもいいことに腹を立てる道理がどこにある?なあ、そうだろう。そんなのは時間の無駄だ。合理的じゃない。つまり、俺が何に怒っているかというと、こういうことだよ。
 さっき、お前はお前自身の先の人生と一緒に、この俺を捨てようとしたってことだよ。


→アトガキ
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