私は打ち下ろした手をそのままに、目の前のイルミの横顔を見つめていた。
 私の手がイルミを打った途端、どこまでも冷静で青白い彼の頬がにわかに血色を帯びて、あっという間に醜く腫れあがった。その事実に、私は少なからず衝撃を受けた。

 この人は、物でできている。
 それが、初めてイルミに会った時の私の印象だった。

 名門ゾルディックの殺人人形。
 そんなゴシック気取りの陳腐なあだ名も、彼が纏えば耽美に聞こえた。
 十代半ばだった当時、彼は、その体躯から凄まじい筋力が発揮されるとは到底信じられないほど華奢だった。癖のない黒髪を顎のラインで切り揃え、表情など抜け落ちてしまったかのように微塵も動かない端正な顔立ちは、まさしく人形だった。

 硬質で冷徹なプラスチックや陶器みたいだと、日ごろから眺めていた彼の頬は、しかし手に受けた感触は想像に反して生々しく、確かに皮膚の下には血が巡り、熱い肉があった。
 イルミは叩かれたままの姿勢を崩さぬまま長いこと横を向いていた。呆然としているわけではない。多分、思索に耽っているらしかった。明らかにこの状況を放り出していた。あるいは、張られた頬を私に見せつけているのかもしれない。私の知る彼は、時々驚くほど性格が悪い。

 やおらゆっくりと黒目が動き出し、それに続いて機械的な仕草で彼はこちらを向いた。正面から見据えられて、私は内心怯んだ。目を逸らしそうになったが、唇を噛んで堪えた。彼の瞳孔はただ黒々と冴えて、私を捉えたまま微動だにしなかった。
 底の見えない夜の沼のようだった。気を抜けば引きずり込まれる。
「…なんで邪魔したのよ」
 私は足元に横たわる男を示して、イルミを非難した。
 男の首にはしろがねの鋲が深々と突き立てられている。こんこんと湧き出でる血はどす黒く、汚物のように粘っこく生臭い。黄色く濁った白目、あらぬ方を見つめた瞳孔は開き、身体は不自然な姿態のまますでに硬直が始まっている。絶命の可否は疑いようもなかった。
 標的を横取りされてはどうしようもない。私の仕事は妨害の憂き目に遭い、あっけなく失敗に終わった。
「なんで、彼の前に飛び出して来たのよ。私が殺すところだったのに」
 イルミは自身の腕に根元近くまで刺さった私のナイフをいとも簡単に抜いた。鍵のフォルムを模したそれは、筋肉の間に潜り込みやすく逆に引き抜くには困難な代物で、刺さるも抜くも地獄のはずだが、彼は涼しい顔で床に放った。あかあかと光る刀身の鈍い輝きが目に焼きついて離れない。
 人殺しの血が、こんなに美しくてはいけないと思った。
「…ねえ、なんでよ。なんで、」
「やりたくなさそうだったから」
 イルミは淡々とした口調で言った。
「…そんなことない」
「じゃあ、迷ったことは認める?」
「…迷ってなんかない」
「向いてないよ、この仕事。俺が言うんだから間違いない」
 かっと腹の底が熱くなったような気がした。ひりつく胃から這い上がってくる胃液を無理やり飲み下す。ごくりという不吉な音が頭の中でいつまでも響いた。
 …向いていないはずがない。彼と同じく私も幼少の頃から暗殺を生業とすべくさんざん仕込まれた。普通の人生を選べば待ち受けることもない相当な苦労に甘んじ、享受してしかるべき権利を諦め、取り戻せないものを数えきれないほど捨ててきたのだ。そこまでした私に向いていない道理があろうか、いやそうでなければ困るのだ。
 私は私を殺してきた。幾千も幾万も、あるいはそれ以上に。
「…私はそのために生きてきたの。これが私の天職なの」
 イルミに対して反駁したつもりだったが、半ば自分自身に言い聞かせるような調子になっていた。あまりに間抜けだった。
 私の動揺などあっさり見抜いたらしく、彼の周りの空気が揺れた。笑ったのだ。
「もっとはっきり言ってほしい?」
 軽く一歩踏み出しただけで、イルミの顔はもう私の鼻先にあった。近すぎる距離で捉えられるのは彼の両の目ばかりで、腫れあがった頬は視界の外だった。
 イルミは、寄りかかってくるようにして私の耳元に唇を寄せ、まるで恋人にささやくように、穏やかに、優しく告げた。

 才能ないよ。

 その言い草に一瞬で沸点に達した私は、すかさず掌を鞭のごとく振り上げて、ついさっき叩きつけたばかりの場所めがけて鋭く打ち下ろした。
 しかし、私の手がイルミの頬を再度打擲することはなく、いともたやすく彼に手首を掴み取られた。逆に動きを封じられるかたちになって、仕掛けようにも退こうにもそれ以上どうすることもできず、私の暴挙はそこまでだった。
 その繊細な指先のどこにそんな力があるのか、イルミは私の腕を万力のごとく恐ろしい力で締め上げながら、ぬっと顔を寄せてきて、頭の悪い子供に言い含めるように、わざとらしいほどゆっくりと、大げさに口を動かした。
「叩かれてあげるのは一回まで。知ってるだろ。俺嫌いなんだ、女に殴られるの」
 イルミの言う通りだった。さっきの一発は叩かせてくれたのだ。そうでなければ、気位の高い彼がそうやすやすと頬を差しだすわけがない。はなから主導権は彼にあって、それがいかに盤石であるかをまざまざと見せつけられた思いだった。
「…私みたいな同業者潰して楽しいの」
 私は半ば卑屈になりながらそう言った。
 イルミは私の腕から手を放すと、鼻を鳴らした。
「別に、そういうわけじゃないけど。望んでない上に、向いてないことしても不幸だから」
「大人ぶったこと言わないでよ。…たかが、十八のくせに」
「十九だけど」
「同じよ」
「君だって十五かそこらで、人生を見限るものじゃないよ」
「見限ってなんかないわ。達観してるのよ」
「同じだよ」
 ふうと息をつくと、イルミは目を閉じた。私より一足先に成長の階を上る面差しは、実年齢以上に大人びて見えた。
「さっき俺を刺した時の君の顔。あんな顔をしてるようじゃ、いつまでたっても人は殺せないよ」
 絶句したのは図星だったからではない。訂正する勇気がなかっただけだ。言えるわけがない。あなたじゃなければ多分そうじゃなかったなんて。
「だって君さ、俺の顔を叩いた時でさえ、」
 イルミの手が伸びてくる。熱のない親指がするりと私の頬骨をさすった。普段の彼からは想像がつかない行動に、私は戸惑った。
「…今でさえ、泣きそうだよ」
 ふと目尻の湿った感覚に気づき、先の彼の仕草は私の涙を拭ったのだと知った。私は黙したまま彼を見上げる。白い頬に浮かぶ痣は紫色になり始めていた。
「…なんだ」
 私の漏らしたつぶやきに、イルミが首を傾げる。その仕草でさえ、もう違って見えた。
 だって、何にも知らないような何にも考えていないような、他人になんか、ましてや私になんかこれっぽっちも興味がないようなそんな顔をしているから、そんなこと考えもしなかった。
 私と標的との間にイルミが身を挺して割って入った理由とか、嫌いだと公言してはばからないのに黙って頬を差し出した理由とか、私の涙を拭った理由の出所が何なのか、少しでも考えてしまったらもうイルミの顔を見られなくなりそうで、私はうつむいたまま息を漏らした。

 だって、今までずっとそう思い込んでいたのに。

 …なんだ、人形なんかじゃなかったんだ。


→アトガキ
inserted by FC2 system