玄関のベルが鳴ったのは、深夜三時を過ぎた頃だった。
 読書に没頭していたクロロがその音に気づいたのは、四度目のベルが鳴らされた時で、それでさえも、何か音がしたような、という程度だった。
 こんな時間に訪ねて来るのは誰だろう。少なくとも新聞の勧誘や消費者金融の取立てでないことだけは確かだ。一町向こうは風俗街だから部屋を間違えたコールガールも有り得る。
 そんな埒もないことを考えているうちに、五度目のベルが鳴った。苛々して焦れているというよりは、開けるまで意地でも待つという相手の気概を感じ、クロロは仕方なく栞を挟んで本を閉じた。


 ドアを開けると、イルミが背中にをおぶって立っていた。はどうやら泥酔しているらしく、イルミの肩に赤ら顔を埋めて、何やらつぶやいている。
 瞬時に面倒くさいと判断したクロロは、ドアを閉めようとしたが、すでにイルミの足によってしっかりロックされていた。
「悪いね、こんな時間に」
 これっぽちも悪いと思っていないだろう顔と口調でイルミは言った。この平然とした様子を見るに、開けてもらえるのが当然だと思っていたに違いない。
「何の用だ、こんな時間に」
「うん、さっきまでと飲んでたんだけどさ」
 言葉の後半を強調するクロロの嫌味に気づいているのかいないのか、イルミは無表情のまま淡々と話し始める。この男はいつもこんな調子だ。
「完全に酔っぱらっちゃって、他の客に絡んでかたっぱしから喧嘩売るし、店の備品荒らすわ汚すわ壊すわで、挙句泣き出す始末で手に負えなくてさー、ここに来るまで何度も吐くし、やっとここまで連れて来たんだよね」
「だから何で俺のとこ連れて来るんだよ」
「だって借りた猫は帰さないと」
 さも当然とばかりにイルミが言う。相槌を打つように、その後ろでが小さくうなった。
「飼った覚えはない」
「でも時々餌やってるでしょ」
 ぴしゃりと断ったつもりが、すかさず切り返されて言葉に詰まる。
「俺も同じ、だから責任も同じ。ってことで、お邪魔するね」
 言うが早いか、イルミはを背負ったままずかずか勝手に上がりこんでいった。有無を言わせぬ勢いに気圧されて思わず通してしまったクロロは、薄暗い廊下でひとり溜息をついてドアを閉めた。


 クロロが部屋に戻ると、イルミは間接照明の薄明かりに照らされたリビングで立ち往生していた。
 そこらじゅうに本がうず高く積まれ、足の踏み場もない。テーブルやソファの上にも散乱していて、泥棒が入ったか地震に見舞われたかと思われても仕方がない。基本的にクロロには長時間横になって眠る習慣がないのでこの有様なのだが、唯一セミダブルのベッドは、大判の本を多少何冊か移動させればどうにか場所を確保できそうだった。
「あけてやるからそこのベッド使えよ」
 クロロが数冊の本を適当に床に放り投げながら言うと、イルミはうなずいてベッドに一度腰掛けてからおんぶしたを下ろした。イルミの背から離れるなり、はベッドの上でカブトムシの幼虫みたいにくるんと丸くなった。
、寝る前にコート脱いで。皺になっちゃうから」
 母親みたいなことを言って、イルミが寝転がったままのを脱がせにかかる。袖から腕をさっと抜き取り、マジシャンのようにするりと薄地のコートを取り払うと、むき出しの白い肩があらわれた。
 まだ啓蟄を過ぎた頃なのに随分と薄着だなと思ったが、季節を先取りしていくのがファッションの基本だし、女は得てして着込むのを良しとせず薄着を好むものだ。そして、男もおおむねそれを好むのだから、需給のバランスは取れている。
 イルミが椅子の背にコートをかけていると、がやおら起き上がって声を上げた。
「…ここどこ?」
「クロロのマンション」
 視線も向けずにイルミは応じた。
「なんで?」
が連れてって言ったんだけど」
「あ、そうだっけ」
「ちょっと待て、そいつがここに連れてけって言ったのか」
「あれ、言わなかったっけ?」
 しゃあしゃあと言ってのけるイルミに、聞いてねえよとクロロは胸のうちで悪態を吐いた。
 イルミのこの故意にもとれる若干毒気のある態度は、単にどこまでも女に甘いのか、他の男の所へ連れて行けと言われた八つ当たりなのか、いまいち図りかねた。しかし、イルミのそういった性格はもともとと言えばそうなので、酒が入っているからその傾向が少しばかり顕著なだけなのかもしれない。
「ほんとだ、クロロのベッドだー」
 が足をばたばたさせながら笑い転げるので、ベッドの端にあった本が何冊か床に落ちた。そのままベッドからころんと落ちて、それがさらにおかしかったらしく、腹を抱えてけらけらと笑い続けている。近くに積んであった本がドミノみたいに崩れていった。
「おい、大丈夫か、
 腰に手をあてながら呆れたようにクロロが声をかけると、はいかにも興味深そうに二人の男を交互にしげしげと見つめて、突然ぷっと噴き出した。
「あは、クロロとイルミだー、くろちゃん、るみちゃん、くろみちゃん」
 は仰向けに倒れ、ひゃははは、と笑った。ごん、と鈍い音がフローリングに響いた。
、今三時。ここマンションだから」
 イルミが後ろからの口をふさぐと、余計に声を張り上げて暴れた。手がつけられないガキみたいだった。薬でも決めてんのか、と尋ねると、イルミは首を振った。
 離してだの、ふざけんなだの、わめき散らすをイルミは床に張り倒した。ついに温厚なこの男も堪忍袋の緒が切れたか、とクロロは思ったが、が叩きつけられて呻いている間にイルミはすぐさま唇を塞いで黙らせた。吐いたばかりの女に躊躇なくキスできる男ってそうはいないよな、とクロロは素直に感心した。
 じたばたもがいていた手足はやがて力が抜けて大人しくなった。殺虫剤食らったゴキブリみたいだなと眺めていたが、イルミが退くと放心した女の顔と弛緩した身体があらわれて、少しばかり欲をそそられた。
 落ち着いたをベッドに運び直し、さてと、とイルミが髪をかき上げた。
「シャワー借りていい?」
「そこの廊下出てすぐ右」
 クロロはそっけなく顎で示した。
のことよろしくね」
 微妙な言い回しだと思った。クロロが何か言葉を返す前に、イルミはバスルームに消えて行った。


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