ベッドに寝そべったはクロロを呼んで、水が飲みたいと言った。
 クロロは溜息をついて頭をかいた。酔っ払いで、しかも女っていうのは本当面倒だなと思いながら冷蔵庫を開けると、缶ビールが何本か残っていたのでついでに取り出した。イルミも戻ってきたら飲むかもしれない。
 ミネラルウォーターをグラスに注いで渡してやると、はクロロの手ごとグラスに取りついて水を飲んだ。身体からアルコールの匂いがぷんと漂った。透明なガラスの淵に赤い唇がへばりつき、白い喉が生き物のように動いた。
 頃合いを見て手を離して、缶ビールのプルトップを開ける。指についた泡を舐めながら、目の前に座る女を眺めた。すらりとしたふくらはぎ、くるぶしにふれる指先、鎖骨に落ちる乱れた髪、普段より赤味が差しているが見知った身体だった。
 イルミはさっき、時々餌をやっているだろうと指摘したが、本当に餌をやっているだけだと知ったら笑うだろうか。来れば部屋にあげてやるし、飯も酒も出してやる。だが、寝たことは一度もない。寝たところで何がどう変わるのか。ただそこが行き止まりだと思い知るだけに違いなかった。
 は少し酔いがさめてきたようで、服の端をつかみながら言いにくそうに口を開いた。
「あのー、…ごめん」
「…別に」
 溜息混じりにクロロは答えた。それは何に対してのごめんなんだ、とは聞けなかった。
「飲みすぎちゃった」
「馬鹿。加減を考えろよ」
「なんか、途中から覚えてなくて」
「イルミに感謝しろよ、ここまで重たい荷物運んできたんだから」
「…うん、それなんだけどさ」
 いつもなら突っかかってくるはずの台詞を流されて、クロロは眉を上げた。
「私なんでクロロのとこ連れてって、って言ったんだろ」
 そんなことをのうのうと口にするので、クロロは呆れ果てた。お前の一言のせいで、俺が突然家に押しかけられたり、イルミが微妙にぴりぴりする羽目になったんだろうが。何だよ、意味ないのかよ。お前のうわごとに俺たちは振り回されただけか。
 知るか、とつぶやいてクロロはビールをあおった。やけに舌に苦さが残った。


「…前さあ、私、猫飼ってたの」
 はまたベッドに横になり、空になったグラスを天井に透かした。間接照明の淡い光に照らされたグラスがゆらゆらと炎のように輝いていた。
「猫?」
 ベッドの端に腰掛けてクロロが訊いた。
「うん、でも野良猫だから飼ってたのと違うのかな。小柄の白猫でね、目が緑色なの。エメラルドみたいにきれいでね、しっぽがL字に曲がってたから、エルって名前つけたの。…ね、単純でしょ」
 はくすくす笑って肩を揺らした。
「前に住んでたアパートでね、裏窓を開けて洗濯物を取り込んでたら、猫の鳴き声が聞こえてね、見ると塀の上に白猫が座ってたの。最初、人間の気を引きたいだけなのかなと思ってたんだけど、あんまり鳴くから近づいてみたら、塀の向こう側に私の洗濯物が一枚落ちてたの。多分風で飛んだんだろうね。偶然かもしれないけど、その猫が教えてくれたような気がしたんだ、お姉さん落ちてますよ、って」
「猫はいろいろいわくがあるからな。神聖視されたり魔性扱いされたり…」
「うん…目がきらっと光って、なんか不思議な感じがした。それでお礼にって思って牛乳をあげたの、ちょうどこのグラス半分くらい。それから何度も来るようになって、名前をつけて呼ぶようになった。エルって呼ぶと、はたはたってL字のしっぽが二回揺れるんだ。それがちょっと不恰好で可愛いの」
 その猫の姿を思い出すように、は目を細めた。
 クロロもそのL字型のしっぽを振る猫を想像してみた。さわったら骨はどんなだろうとか、怒ったらカマキリみたいに尾を振り上げるんだろうかとか。
「…それから三ヶ月くらい経ってからかな、近所に買い物に行った帰り、偶然エルを見かけたの。エルって呼ぼうとしたら、シロって声が聞こえて、見ると杖をついたおばあさんが、エルのことを手招きしてた。…あは、よくある話でしょ。私さ、なんか勘違いしてたんだよね。エルは野良猫だから、別の所でも牛乳もらってるし、別の人にもなでてもらうし、シロって呼ばれてもL字型のしっぽを振るんだよね、はたはたって二回、同じように」
 バスルームから五月雨のように続いていた水音がふいに止まった。
 温くなった不味いビールを口に含み、残りは流しに捨てようとクロロは思った。はごろんと寝返りを打ってその様子をぼんやりと目で追っていた。
「その後もね、エルは相変わらず来たけど、私は素直に可愛がれなくて、ただ淡々と牛乳を注いで頭をなでるっていう繰り返しだったの。そのうち、エルに牛乳をあげたいからあげるのか、エルが来たから牛乳をあげてるのかわからなくなった。そういう状態で構うのは優しさでもなんでもない、それ以下だと思って、もうエルが来ても見えないように雨戸を閉めた。それからずっと、近所でもエルは見なくなった」
 が白い腕を伸ばし、クロロの手にふれた。やけにやわらかくて、熱かった。
「…ねえクロロ、あげたいと思わないなら、あげなくていいんだよ。あげてもあげなくてもどっちでもいいくらいの気持ちなら、あげない方がいいんだよ」
 違うんだ、とクロロは胸のうちでつぶやいた。
 お前に何も言ってやらないのは、抱いてやらないのは、そうしたところで決して俺のものにはならないとわかっているからだ。別の男の部屋に上がろうが、飯を食おうが、寝ようが、名前すら本当でなくても、俺はお前を追い出したりしない。それは、惰性や同情や気まぐれなんかでやってるんじゃない。誰のものにでもなるけれど、誰のものにもならないお前を、愛してるからなんだ。
「あ、イルミ」
 の声に振り返ると、イルミがバスルームからちょうど出てきたところだった。
「あれ、起きてるんだ」
「うん、水飲んだら割とお酒抜けてきた」
 が跳ね起きて、空のグラスを持ち上げて見せる。
「具合は?」
「大丈夫、ちょっと眠いけど」
 よかったね、とイルミがの頭にぽんと手を乗せた。
 二人のやりとりを横目で見ながら、クロロは台所に立って流しにビールを捨てた。

 は、そうやって懐きながら、いつ拒まれても去る覚悟ができているんだろう。好意を向けてくれる人間に寄りつく、野良猫みたいに。でも、本当は全部お前次第なんだよ、。俺たちは野良猫を飼い慣らす人間なんかじゃない。

 俺たちは、お前をうまく手なずけているつもりで、追い詰められたネズミなんだ。

 クロロは手に力をこめた。アルミ缶がべこりと音を立てて歪んだ。どくどくと脈打つように震えながら、黄金色の液体が排水溝の闇に消えていくのをクロロは悼むようにじっと見ていた。


→アトガキ
←back
inserted by FC2 system