キティ in the afternoon

 マスカラを重ねづけする手を止めて、あたしは思い切り大あくびした。鏡の向こうのあたしが大口開けてこっちを見ていることに気づいて、あわてて口を閉じる。いけないいけない。あたしは気を取り直して、薔薇のブランドのマスカラを持ち直した。
 風があまり吹かない蒸し暑い日だった。二度寝して起きた時、強烈な日差しを寝ぼけまなこに思い切り食らって、あたしは悲鳴をあげた。夏休みみたいな陽気に、ようやくさっきまでの寝苦しさの理由を知った。
 残念ながらタイムリープは夢の中でしかできないので、当然今日は九月末。高校はこの間から始まっているらしい。
 夏休みって短すぎると思う。中学の時、新宿でシェイクスピアの『真夏の夜の夢』を観た時は、夏の一晩は夢みたいに不思議で夜明けがこんなに遠いんだ、としみじみ思ったのに現実の夏はびっくりするくらい早くて嫌になっちゃう。
 だから、あたしはキキララの手帳を開いてAUGUSTの31でストップしていた矢印を、SEPTEMBERの31までひっぱった。もちろん九月は三十日までだけど、夏休みの最後の日は三十一日って決まってるから、余ってた枠に31を書き足したわけ。こうしてあたしの夏休みは一ヶ月延長されたのだった。
「よし、完成っと」
 下まつげにロングマスカラをぬり終えて、ポーチにしまう。ふわふわボリュームを出したポニーテールにシュシュを結んだら、早速カバンをつかんで夕方の街に飛び出した。


 クッキークランチのアイスを食べながら、繁華街をふらふら歩いていると、通りの向こうからボルゾイを伴ってやってくる彼を見つけた。
「あれ、まだ夏休みだっけ?」
 イルミはちらっとあたしの格好に視線を走らせると、開口一番そう言った。もちろんあたしが学校を無断欠席していることをわかった上での台詞だ。要するに嫌味。
「そうだよ。いるみも夏休みでしょ」
「俺は大学生だから、九月一杯はね。、そろそろ出席日数やばいんじゃない?」
「ぎり大丈夫。計算してるから」
 アイスを食べながら、人差し指と親指で輪を作ってみせる。
 これでも成績はそこそこ取れるので、遅刻でも早退でもいいから、とりあえず出席日数さえ稼いでおけば問題ない。内申を気にして必死に猫かぶるやつらなんて、くそ食らえだ。
 長身のイルミは呆れたように上からあたしを見下ろす。この、しょうがない子だなあって顔をされる度に、イルミの妹だったらよかったのにと、ないものねだりをしたくなる。
「それで進級できなかったら指さして笑うよ。あ、一口ちょうだい」
 イルミが笑うところを見られるなら落第してもいいかも、と冗談半分本気半分に考えていると、横からアイスを食べられた。イルミは、流れるようなストレートのボブを耳にかき上げながら顔を寄せてきて、小鳥みたいにさっと離れていった。首筋からISSEY MIYAKEの香水の匂いがした。
「…あれ、そういえばミケは?」
「待ってるよ。向こうで」
 イルミが顎で示す。
 見ると、少し離れた街路樹の脇で真っ白なボルゾイが行儀良く座っていた。イルミの声に反応したのか、首を伸ばすようにしてこちらを窺っていた。 
「ミケっていつも傍に来ないよね。あたし嫌われてるのかな」
「ううん。ミケは主人が人と話す時は離れて待つんだ。気遣ってるんじゃない?」
「しつけたわけじゃないの?」
「ボルゾイは頭がいいし独立心が備わってるから、自己判断で動くんだよ。まあ、親父に長くついてたからっていうのもあるだろうけどね、ミケの場合」
 自分の名を再び呼ばれて、ミケは神経質そうに耳を震わせた。あたしは手をひらひら振りながら、ミケ、と呼んでみた。彼はちらとあたしを一瞥すると、すぐにイルミの方へと視線を戻した。瑣末なことを歯牙にもかけない態度は、イルミに似ていると思った。
「来る?」
「え?」
「ミケの散歩。まだ途中だから」
 イルミが歩き出すのとほぼ同時に、ミケが素早く立ち上がり颯爽と体躯を揺らして後を追った。言葉もアイコンタクトもなく、阿吽の呼吸でそれをやってのける二人を目の当たりにして、あたしは何となく出遅れてしまった。
「待って、あたしも行く」
 あわてて声をかけると、イルミは肩越しに一瞥した。
「おいで、
 あたしペットじゃないんだけど、とこぼしながらイルミの腕に飛びつく。
 ミケがあたしを見上げて、しょうがないお嬢さんですね、という顔をした。


→in the twilight
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