キティ in the twilight

 ミケの散歩に同行するのは楽しい。だって、イルミの生活習慣の一部を共有できるから。
 たとえば、デートならそれぞれの時間を出し合って二人の時間を作るけど、人の習慣を共有するっていうのは相手の時間の中にあたしが食い込んじゃう感じだと思う。それってすごく特別なことのような気がするし、こう言うと嫌な子みたいだけど、そうすることをイルミに許されているという優越感にちょっとだけ浸れた。だって幼馴染だから、既得権益ってやつだよ、うん。
「ミケってさあ、なんでミケっていうの?」
 繁華街を抜けた後、あたしたちは森林公園に入り遊歩道を湖沿いにぐるりと歩いていた。日暮れ近いこの時間には、同じように犬を連れて歩く人もちらほら見かける。他の犬がしつこく吠えかかってきても親しげに鼻を近づけてきても、ミケは平然とした面持ちで相手が過ぎ去るのを待った。
 あたしはただ漠然と、大人だなと思った。それから、あたしは多分そういうのがうまくできないんだろうな、と思った。
「ミケっていう名前だから」
 故意なのか天然なのか、1+1=2と言うのと同じようにイルミは答えた。
 そうじゃなくて、とやや脱力しながらあたしは言葉を継いだ。
「ミケって普通猫につける名前じゃない?それに毛の色が三毛でもないし」
 白い毛並みが風に揺れるのを眺めて、あたしは言った。
「親父がつけた名前だから知らないけど、本当はもっと長かった気がする。ミケランジェロとかミケロッツォとか」
「うわ、なんかそれ聞くとイメージ変わるね」
「でもロシア貴族の犬に、イタリアの建築家の名前って変だよね」
 イルミは時々こういうふうに説明を飛ばすので、あたしはついていけなくなる。
 ボルゾイがロシアの原産で貴族に猟犬として飼われていたこととか、ミケランジェロ・ヴォナローティやミケロッツォ・ディ・バルトロメオがルネサンス期に活躍したイタリアの建築家だとか、そんなことあたしは知らないので、こういう時は精一杯できる範囲で正直に返事をする。
「…あたしそういうのわかんないけど、そういう名前もミケに似合ってるなって思った」
「うん。俺も嫌いじゃない。ひねくれてて親父っぽいし」
 あたしは胸をなで下ろした。家に帰ったら調べておこう、とさっきの単語を思い出して頭の隅に留めておいた。

 ミケはあたしたちが会話している間も、黙々と少し先を歩いていた。
 道を間違えることも何かに気をとられることもなく、まるでヒールを履いた貴婦人のように、つんと鼻を高く上げて前を見据え、つま先は優雅な足さばきで軽やかに土を蹴った。羽箒のようなふさふさとした長い尾は、歩調のリズムを刻んで左右に振れる。首輪やリードを身に着けていないことは、彼の才知と忠誠心の深さの証明で、与えられた自由を誇るように巨大な体躯は躍動していた。
 湖に目を向けると、ちょうど半周した辺りだった。
 湖面が夕暮れの色を映してたゆたっていた。近くを白鳥が二羽、凪いだ水面を滑るように泳いでいく。こんもりと密度の高い純白の羽が、弾いた水の粒を纏って夕日にきらきらと輝いていた。
「…勉強、嫌いになった?」
 あたしは顔を上げる。
 イルミの声は、教え子を心配する家庭教師の声になっていた。
「ううん、勉強は割と面白いよ。学校は…嫌いだけど」
 あたしは、迷うことなく前へ進むミケの背中を見つめて言った。
 首輪をつけられて、リードでこっちへ行けと引っ張られる、そんな仕打ちをされても何の疑問も抱かずに受け入れているみんなが不思議だった。右へならえをしているだけなのに、自分で選んで自分で決めたと思い込んでいるのが滑稽だった。頭はいいのに、考えない馬鹿が多すぎると思った。
 だから、あたしは首輪もリードも捨てた。これで自由だと思った。でも、自由はどこかむなしかった。こんなに自由はむなしいものだろうかと思った。それは自由じゃなくて、現実逃避と自己満足だと気づいた。あたしは、ただの考える馬鹿だった。あたしは、あたしが馬鹿にしてた奴らと大差ない馬鹿だった。
 気づいたところで、やっぱり学校にはまともに行く気になれず、勉強だけはイルミに教わったり自習したりして続けていた。どんなに馬鹿でも阿呆でもろくでなしでも、自分の頭で考えることと、自分で選んで決めるということだけは、絶対に貫こうと思った。それだけは、自分に固く約束した。
「俺が学校にいたら学校来てた?」
 イルミは足元に視線を投げたまま頬をかいた。
「あー…どうだろ、でも、ううん…行く、かな。うん、いるみがいれば行く」
「ふうん、じゃあ教職とろうかな」
「…それって、あたしがあと二、三年くらい留年すると思ってるってこと?」
「なくはないよね」
「うわ、ひっどい」
「…ればよかった」
「え?」
 ユーズドのジーンズに手を突っ込んだまま、イルミは足元の小石を蹴飛ばした。小石は遊歩道を外れて、湖を取り囲む鉄柵の向こう側へ落ちていった。ややあって、ぽちゃん、と疑問符みたいな音が返ってきた。
「俺がそこにいればよかった」
 小石の落ちていった方を見つめたまま、イルミはつぶやいた。
 あたしは、立ち止まったイルミの手にふれた。あたしより大きくて、あたしより華奢な手だった。
「…今、いるからいいよ」
 嘘がばれてしまいそうだった。うつむこうとしたけれど、できなかった。イルミの手に頬を包まれた。頬が赤くなっていくのを感じた。チークはピンクなのに。そんなことを考えながら、あたしはゆっくり目を閉じた。

 あたしがついた嘘。イルミにいくつ許してもらえるんだろう。
 今だけじゃなくて、いつだってあたしのところにいてほしいと思っていること、時々すごく学校に行きたくなること、本当は犬より猫が好きなこと。

 目を閉じる刹那、視界の端で行儀良く座っているミケが見えた。ミケは、しょうがない人たちですね、という顔であたしたちを見ていた。


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